2011年2月18日金曜日

モノへの執着。
人への執着。

これを失ったら、そのもの以上の何かを失うんじゃないかという恐怖。
このなんともいえない、もの悲しさはなんなんだろう。
別に、モノとしてのこれがなくなったって、何も変わりゃしない。
それはわかってる。
この悲しさが、愚かしい執着からくることもわかってる。

でも、この執着を捨てたい、捨てなければならないとも思わない。
なくなったらなくなったでそれもいいかもしれないけど、
今の私はどうしたって、執着してしまうもの。
人にもモノにもコトにも。

私だけじゃない。
私執着してないです的な人を見るにつけても、
やっぱりどこかしら執着してるところがあるしさ。笑

それを執着しないようにと自分を無理やり「律する」みたいなのには違和感がある。
それこそ「執着しないこと」に執着している行為じゃないか。

執着を感じている自分を受け容れて、観察して、面白がりたいな。
今はそれができている。気はする。

これは言い換えれば、自分を俯瞰するっていうことだろうし、
ひとことで言えばメタ認知ってことなんだろう。
これらのことが語られるときは
「優れた人、レベルの高い人ができること」
「だから俺はできてます!キリッ」的な雰囲気を感じることが多いのだけど、
そんなけったいなもんじゃないよ。かっこつけて言うもんでもない。
ただ単に、苦しく悲しい現実から逃れるための、処世術にすぎないんじゃんと思う。


だからこそ、人間はこんなにも愚かしくて、此の上無く愛おしいんだけれども。

1 件のコメント:

  1. 鍵と手紙を見ながらいろんなことを思いました。
    うまく言葉にはできてないのだけれど。

    わたしはうまく執着出来ない人間なので、
    うまく此処に執着するために、カップを探しているのだと思います。

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